日本神経心理学会

神経心理学への誘い

神経心理学的な代表的症候

失行:サヨナラなど身振りができない,自分の手なのにうまく動かせない,手は自在に動かせるけど道具は使えない
中川 賀嗣 先生(北海道医療大学リハビリテーション科学部)

 行為・動作面に異常が生じた場合,その原因は多岐にわたります.例えば,言葉が理解できない場合も,目の前にある物が,何かわからない場合も,次に行う行為や動作に影響し,行為や動作の異常をきたします.また行為・動作の実現に特化して機能している機構があるとすれば,その機構の障害によっても行為・動作は障害されることでしょう.こうした多岐にわたる原因によって行為・動作は障害されますが,これらの原因のうち,「その原因が行為・動作の実現に特化して機能している機構の障害によって生じたもの」を失行と呼びます.しかし失行をこのように概念的に想定したとしても,そんな機構が実際に脳内に存在しているのでしょうか.あるいはその障害としての失行が存在するのでしょうか.これまでの研究では,失行に相当する症候は,確かに存在していて,時代とともに多くのことがわかってきています.しかしそれでも失行に関する知見には,失語や失認に比べて遥かに混沌とした部分が多く残っています.

 ここでLiepmannが,最初に失行について報告した論文(Liepmann, 1900)をみてみたいと思います.この論文は,失行という病態が存在することを臨床家たちに認めさせた論文とされていて,ここには失行症状を評価する手順が示されています.この手順は今でも受け継がれているので,その手順を支える考え方をみなさんと共有したいと思います.症例は41歳男性です.この症例は,日常の行為や動作はでたらめで,物品の指示課題でほとんど全てを間違いました.そのため言葉の理解も,対象の認知も障害されていると周りからは,みられていました.この症例を診察する機会を得たLiepmannは,本例の動作の障害が,右上肢を使う時のみに生じていたことに気づきました.そこでこの異常な動きを呈する右手を縛り,強制的に左手を使わせてみたのです.これが状況を一変させました.この症例は,左手ではカードを正しく選択できたのです.すなわちこの左手の成功から,本例が対象を正しく認知できていて,しかも指示理解も可能であることがわかります.右手の動作の障害が,対象認知の障害(失認)や言語理解の障害(失語)のために生じていたのではないことを,Liepmannは示したのです.その後,さらに同様に,その他の原因,例えば感覚障害による副次的な行為・動作障害の可能性等を,順次除外していったのです.かくしてLiepmannは,この症例の右手の動作障害が,副次的な原因によらないことを示すことに成功し,つまりは,副次的な原因によらない,未知の機構の障害,すなわち行為・動作を専門とする脳機構の障害による動作の障害(失行)であることを示したのです.ここで示された手順,考え方は,今私たちが,眼前の症例の症状を失行と判定するのに,症例ごとに毎回踏む必要のあるものです.

 表に失行と考えられる症候を示しました.

表. 失行分類

  症候名
意味のある行為・動作の障害 ①パントマイムの失行(観念運動失行)
②道具使用の失行(観念失行)
その他の行為・動作障害(行為・動作の調整の障害) ③道具の強迫的使用
④拮抗失行
⑤運動無視
⑥間欠性運動開始困難

 これらの症候を簡単に紹介します.

①パントマイムの失行(観念運動失行)

 一口で言うと,パントマイムの失行は,サヨナラなど身振り,道具使用の身振りができなくなる症候です.パントマイムの失行は,他の失行症状を併発していない限り,日常的な,サヨナラなどの合図,挨拶は可能です.また道具の実際の使用も問題なくできます.日常での動作が可能である一方で,検査場面では身振りの障害をきたすというように,成績が解離する訳ですが,その理由は諸説あります.この障害は,一側(左頭頂葉)の病巣で,左右どちらの手を用いた時にも出現します.
 パントマイムの失行は,失行の代表格的存在です.先に指摘したようにパントマイムの失行では,日常生活動作には支障はみられないと考えられています.それなのにほぼ同じ動作をパントマイムで再現する際には障害される,というのは,何故なのでしょう.この症候には,脳の仕組みを知るための重要な鍵が隠されているように思います.

②道具使用の失行(観念失行)

 一口で言うと,道具使用の失行は,手は自在に動かせるのに,道具を実際に使うことができない症候です.先のパントマイムの失行は,道具を手に持たずに使用動作を行った時の動作障害ですが,道具使用の失行は,日常と同じく道具を手にしている状態での使用動作の障害です.そのため道具使用の失行例では,検査場面だけでなく日常場面でもやはり道具の使用は障害されています.もちろん道具やその使用対象が何かは分かっていることが前提です.原則パントマイムの失行を伴います.この障害は,一側の病巣(左頭頂葉)で,左右どちらの手を用いる場合にも生じます.道具を使うという,ヒトならではの活動が,どのように営まれているのか,とても奥の深いテーマです.その核心は,未だに不明です.

③道具の強迫的使用

 使おうという意思がないのに,道具にさわる,あるいは見ることによって,右手(利き手)が勝手に道具を使ってしまう現象が見られる症候です.道具を使う動作に至る前から,右手は勝手に動いてしまって,制御できないので,本人は左手で,右手を抑え込もうとします.把握反射や本能性把握といわれる反射が伴うことも特徴とされます.先のパントマイムの失行や道具使用の失行が,一側半球の損傷でどちらの手を使う場合にも見られたのに対し,道具の強迫的使用は,原則,右手だけにみられる症候です.本症候では,右手が勝手に動いたり,意思に逆らったり,勝手に道具を使ってしまうのですが,脳の中で道具の使用や,その他の左右手の動きがどのように処理されているのか,とても不思議に感じています.この不思議な症候のメカニズムがわかれば,行為・動作障害の治療やリハビリテーションに生かせるかもしれません.

④拮抗失行

 右手の随意的な運動に触発されて,左手(非利き手)が意思に従わず,勝手に右手に対し非協力的あるいは逆目的の動作,あるいは時に協調的な動作を行い,一貫性を持った動作として完結できない症候です.無目的に見えるような動きも見られます.これは,左手にみられる症状なので,先の「道具の強迫的使用」と出現手は逆ですが,どちらも意思から離れて動く患手を抑え込むことがよく見られます.本症候では,道具の使用以外の動作について,「道具の強迫的使用」と同様に,今度は左手が勝手に動いたり,意思に逆らったりするのですが,脳の中でどのように左右手の動きを処理しているのか,とても不思議に感じています.

⑤運動無視

 日常生活動作で,一側の手を使おうとしない,会話中の身振りは減り,歩行時の手の振りも減少し,手を普通に腿や椅子のひじ掛けに置かず,体の横あるいは足の間に置くなどが見られます.こうした様子は,まさに重篤な麻痺や感覚障害があるようにみえます.ところが,言葉で励ましたり,患肢を使うように指示することで,この麻痺や感覚障害があるように見えた手の動きが,顕著に改善します.この改善性が,運動無視の特徴で,右手あるいは左手一側に生じます.このように,運動無視では,使えるはずの患肢を使おうとしません.意図する行為・動作,意図しない行為・動作の調整などに関わる,実は脳の重要な役割に触れている症候かもしれません.

⑥間欠性運動開始困難

 一連の行為・動作の流れの中で,動きの節目ごとに,次の動きへ移行できなくなる症候です.例えば何かを把持した途端,急に動きが止まってしまう現象です.節目以外では,動きに不自然な点はみられません.右手あるいは左手一側に見られます.本症候では,途中まで患肢を正常に動かせているのに,なぜ急に動きが止まるのでしょう.まれな症候ですが,まだわからない点も多いので,もう少し症状を整理する必要があるようです.

 これら不思議な症候に,もっと近づいてみませんか.

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