本規範は,日本神経心理学会の会員が研究を行うにあたって,基準とすべき倫理を定めたものである.
倫理とは,自己が他者のことを考えて自らを律する規範であり,一人ひとりが自覚的,自律的に守るべきものである.本規範に拘束力や罰則規定はないが,本学会は会員が本規範を遵守することを希望する.
本規範の各項は診療行為には適用されないが,本学会は,会員が診療行為の倫理にも十分な注意を払うことを期待する.会員の参考のために,診療行為が正当と見なされるための最低限の条件を本規範の末尾に追記する.
本規範における“研究”とは,人を対象とした医学的および心理学的研究のことである.
研究は,“診療的研究”と“生物医学研究”とに分類される.
本規範が想定する研究の範囲は,神経心理学的研究に加えて,臨床心理学的研究,実験心理学的研究,神経生物学的研究,神経画像学的研究,および認知科学的研究を含む.
“研究者”とは,研究を企図し実行する者の総称である.“研究責任者”とは,研究を中心的に組織し指導する者を指す.
研究における被験者個人の利益と福祉は,科学や社会に対する寄与よりも優先されなければならない.
研究者は,研究を実行する前に,それまでの研究成果を網羅的に参照し,その研究の必要性を明確にしておかなければならない.また,研究の目的と方法も明確にしなければならない.その目的と方法は科学的観点から見て妥当なものでなければならない.研究の内容は,その研究目的を達成するために必要最小限の範囲に限定するべきである.また,その研究には科学的に有意義な知見が得られる具体的可能性がなければならない.
研究者は,検査や研究方法の有用性と被験者に及ぶ危険や苦痛などの不利益を十分に検討すべきである.実施される検査や研究方法によって被験者に不利益が生じる可能性が予測されるなら,問題の検査や研究方法あるいはそれらを用いる研究そのものを変更ないし中止しなければならない.研究が行われている経過中に,被験者に不利益が生じると判断された場合も同様である.
被験者は,健常者であれ,治療的関係にある人であれ,自発的意志によって研究に参加するものでなければならない.
研究が健常者に行ってもその目的が達成されるなら,治療的関係にある人の保護の観点から,健常者を対象とした研究を優先させる.また治療的関係にある人の中では,意志決定能力があり,かつ意志表示が可能な人を被験者とすることを優先すべきである.意志決定能力およびその表現に問題のある人を被験者とする研究は,被験者の病的状態に関連することに限られる.
研究者は,研究に必要な知識と経験を有していなければならない.もしも研究者が研究に必要な知識と経験を十分に有しているとは認められない場合には,研究に必要な知識と経験を持つ研究者の指導あるいは教育,監督の下で行う必要がある.
研究の責任はその研究に関与するすべての研究者にあり,個々の研究者はその研究における倫理的諸問題について主体的責任を果たさなければならない.
研究内容はその研究に関与しない第三者による事前の審査を受け,その経緯を記録に残すことが望ましい.また,事前の準備と計画がない後ろ向き診療的研究では,その研究が発意されたあと速やかに第三者の審査を受けることが望ましい.
なお,継続中の診療行為に,診療を目的としない検査などを追加する場合には,追加部分を生物医学研究ととらえ,その正当性について本規範に則って検討する必要がある.
研究者の所属する施設に倫理委員会がある場合には,その倫理委員会の取り決めに従う.
研究への参加を依頼するとき,および研究結果の公表を行うときには,被験者に対し以下のような説明を行い,同意を得る必要がある.
A.治療的関係にある人を被験者とする場合
治療的関係にある人を被験者とする場合,後ろ向き診療的研究と前向き診療的研究そして生物医学研究が想定される.
後ろ向き診療的研究においては“公表”に関して,前向き診療的研究と生物医学研究においては,“結果の公表を含む研究への参加”に関して,本人に説明を行って同意を得た上で研究に着手する必要がある.特に生物医学研究では,研究の主な目的が本人の直接的な利益ではなく,科学的知識の増進にあることを十分に説明し,理解を得た上で同意を得ることが必要である.
なおこれらの同意は,被験者に対する物理的,心理的または経済的威圧のない状態において得るべきである.
B.治療的関係にない人を被験者とする場合
治療的関係にない人を被験者とする研究はすべて生物医学研究に該当し,前項の規定に従う.
研究への参加の同意は,事前に被験者が実施目的や方法について明記した文書を読んだ上で得ることが望ましい.被験者の同意は文書で得るべきであり,書式は以下の点が第三者に明確にわかるものである必要がある.
被験者が何らかの障害のため,または幼少であるために了解が困難な場合,上記に準じて,本人の利益を代表する保護者または関係者の同意を得る.
研究者は,研究結果を他の会員と共有するために,その内容を何らかの形で発表するように努める必要がある.発表内容は対象となった被験者にも,本人が希望しない場合を除いて,通知されるべきである.
被験者の個人的な情報は厳重に保管し,専門家として必要と判断した時以外には,他に漏らしてはならない.公表が必要と判断された場合には,その被験者の同意を事前に得る必要がある.
研究結果を公表する際には,被験者は匿名で扱われ,個人の身元に関する情報が漏れることのないように配慮されなければならない.写真,音声,映像など被験者本人が特定される可能性がある情報は,公表に際して,本人の承諾を得たことを明示すべきである.
診療行為に対して日本国内の現在の法律と判例が課している最低限の義務を以下に列挙する.
診療行為の内容は診療を目的としたものでなければならない.研究を目的とした行為が結果として対象者の診療に役立ったとしても,その行為を診療行為とみなすことはできない.
診療行為の内容は,その手段と方法がその分野一般で承認され,現在の水準に達している妥当性のあるものでなければならない.実験的な診療行為が許されるのは,一般的な診療行為では期待した成果が得られず,その行為の利益と安全性についてそれまでの実験や研究などである程度の実績があり,さらに,対象者にその目的と危険性を十分に説明した上で承諾を得た場合に限られる.
診療行為の内容が何らかの危険性や苦痛を伴う場合には,対象者に説明した上で承諾を得ていなければならない.
診療行為を行う者は対象者から診療の依頼を受けていなければならない.もしくは,対象者から診療の依頼を受けた者からの“指示”ないしは“指導”を受けていなければならない.対象者の依頼なしに診療行為が許されるのは,対象者の生命と身体に危険が迫っていて,他に方法がなく,診療行為を行うことがそのまま放置しておくよりも有益であると考えられる場合に限られる.
診療行為を行う者は最善の注意をもって診療にあたらなければならない.また,自らの診療技術を高めるために普段から最善の努力を尽くさなければならない.
診療行為を行う者は診療上の重要事項について,対象者に説明した上で承諾を得なければならない.
診療行為を行う者は診療上知り得た対象者の秘密を漏らしてはならない.